昭和44年4月28日 朝の御理解

御理解第96節「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」



 現教主様が、言うておって下さる、教えておって下さることの中に、それぞれ生活の現場においてと。または、手元とのところを大切にといったような手元のところ。または生活の現場ね。私共が生活させて頂くその、様々な現場において、手元のところを大切にしていかなければならん。
 それぞれの、例えば御用ということにおいても、これは、実意を(かいでは?)ならない。ね、という事でございましょうが。その、生活の現場の中に、中から起きて来る事柄。例えば仕事をしておるその仕事も、実意丁寧、何事にも信心になれよ、と仰るから、そこんところを好い加減にしてはならないと。
 ね、例えば、お商売をさせて頂きよる者はお商売の現場において。女の方達が、お炊事をしておるならば、そのお炊事場のその現場において、お掃除をしておるなら、お掃除をしておるそのことがです、ね、まぁよかよかといったような事はいけないと。
 その場その場を信心で取り組んで行けよということと同時に、そこから起きて来る事柄。そこを私は、自然との対決とこう、いうような事まで申します。ね。
 例えば成り行きを大事にせよ、ということは、そこから起きて来る例えば成り行き。そこから起きて来る事柄と。その事柄との対決において、ね、それと相対する場合。それに例えば打ち勝っていくというか、それを合掌して受けていくというか。そういう生き方あり方が、大事だということです。
 そこで私共の心がけの中にです、ね、今年の合楽の信心のスローガンであるところの、「より明るく、よりにこやかに」という事が、あそこに、まぁ大きく出てくるわけですね。
 ね、お互いの、その生活の現場において。ね、その生活の現場において、そのこと、そのことを大事にすることと同時に、そこから起きて来る問題。そこから起きて来る事柄。ね、との対決である。それを右に左にこう交わしちゃならん。そのことに、しっかり対決していかなきゃいけない。
 しかもその対決していくなら、勝たなければならん。勝つということもですね、打ち負かすという、その何というか、それをいうなら合掌して受けて行くということなんです。ね。
 ですから、そのことを受けて立たせてもらおうという、元気な心が必要であると同時にです、いかに私共が、より明るく、よりにこやかでなからなければならないかということが言えるでしょう。
 それは、例えば、神のことを口端かけるのも、神のひれいじゃとこう仰る。これは例えば神様の悪口といったようなものではない。とやかくいうて。なら信心をさせて頂いておる私共のことをですね、とやかく、いや信心のある者同士でもです、例えていうと、(ちいさいけんの?)ここの(ばいり?)なんかでもそうでしょう。
 この頃、二、三日前ね、「八坂?」がお見えになられたということについて、皆さんがどういっておるかというと、とにかくその合楽がすることはえげつない。あそこはもう皆が商売人だし、あちらの教会長の大坪が、大体が根が商売人だから。とにかくすることがえげつない。ね、もう駆け引きばっかり強くて、そういう風に見られ、言われておるわけです。
 (ようくあーやってみると?)そんな、自然に起きたことであって。ね、私が駆け引きした分けでもなからなければ、皆が商売気が強うて、そうしたわけでもないのだけれどもです、そういう風に、結果はその、そういうことになっておるもんですから、それが問題になって。
 勿論そのような悪口を、まぁ言われた事だけは間違いないけれども、私それを聞いたと貴意にですね、いやこりゃおかげ、またおかげ頂くぞという気しかないのです。それこそ、「より明るく、よりにこやかに」その今までね、その瞬間はですね、その以前の、私よりも、それを聞いてこっちの方が、それを明るく、にこやかに受けておるという事実がある。私の心の中に。
 またこげな問題が起きて嫌だな、ていったような事がさらさらないのです。神様まだそのことでおかげ下さる、下さろうとしておるなと。まぁある意味合いでは、合楽、むしろね、こう宣伝して下さっておるなと。
 まぁ本当ににこやかに受けなければ勿体無い。それがね、そういう風にすっと受けられるということがです、私は常平生の信心であり、いわゆる絶えず自分の心の中に和賀心。ね、和らぎ賀ぶ心。ね、何時も心が平生であるということ。平生心であるということ。平生心でないから、ね、もうチンというたらカンといったような風に受けていかなきゃならん。
 ね、相手がカンというような風に、打ちかかってきても、こちらが例えば(まあた?)で受けるように、ふわっと受ける(れ?)といったようなことを、まぁ一般に申しますがね。
 その(まあた?)で受けるような柔らかい、(まあた?)のような心が何時もなからなければ、さぁとっさに間に合わないということ。もう私もあん時にはどうも、心のその持ち方というか、虫のおりどころというのが、こっちも悪か時にあげな事言われたもんじゃけん、私もあんたカーッとしてからと。といったようなことを言うでしょう。こっちの虫のおりどころが悪い。
 普通ならばあれを、柔らかに受けれるんだけれども、虫のおりどころが悪かったから、あぁして腹を立てたといったような風にならんようにです、何時も、その虫のおりどころというものを自分でこころしとかなければならない。ね。
 ここには、先は知っておらんぞ、とこう仰るけれども、私共は次々と体験の中からです、ね、成り行きを大切にというか、手元を大事にさせて頂くという、その自然との対決のことに置いてです、どのような事でもあっても、それは場合であっても、それをありがたく受けていくというような、心あらばです、ね、必ずそのことが帰っておかげになる。それが難であっても、それが難儀な事であっても。
 その難儀が必ずおかげの元になるという事を、次々と体験によって分からせて頂いておるから、ね、先は知っておらんぞ、と仰るけれども、先は分かっておる。
 ですから、人が例えば顔に関わるような事を言うても、はーこりゃ神様はどういうおかげを下さろうとしておるだろうかというて、楽しいようなものすらが心に頂けてくるようになる。
 神が顔を洗うてやる。ここが有り難いんです。ね、問題はここを頂くためなんです、顔を洗うてやるということは、私共の顔を立てて下さるということ、意味と同時にです、ね、それはね、とてもその自然の、との対決をです、好い加減にする人達では、とうてい分からんいほどしのおかげが受けられるということ。
 例えば椛目合楽を通してです、ね、それこそ顔に関わるようなことをどのくらい言われて来たか。されて来たか分からないけれどもです、それがみんなおかげになって、こうして、今日のようにおかげを受けておるとです、皆がなるほどとやっぱ合点をして下さるようにも段々なって来る。
 これは顔を洗うて下さっておるのであり、顔を立てておって下さるのである。しかもその、顔を洗うて下さっておる、顔を立てて下さってあるというのは、ならこういうようなおかげに、ということなのである。
 まあだまあだこんなこっちゃない。これから先が楽しみである。ね、だからなら、これでもある先生が私に、こんな事を言われた。そこで私が正面玄関からその先生をお送りしよった、したらこうやってからお広前見てから、大坪さん本当にあんたんところはふが良かったですよっち。
 ふがようしてからこのお広前が出来たように言われた。(?)馬鹿んごたることばっかりいわっしゃる先生と私は思うたですけれえどもね。果たしてふが良かったけん、こげなお広前が出来たのでしょうか。
 だからそのようにまだ分からない人もある。いうなら、神の神様の働きを無視するようなことを、いうような人もあるけれども、そういう人達にはこれでもか、これでもか分からせられる働きがあるから、私は限りなくまだ、そういう人があって良いんだと思うのです。そうでしょうが。
 ほりゃ(こ?)大坪さんな大体が商売人じゃから、なかなかとしてその人当たりが良い、お供えのさせ上手。もうそりゃ様々にいわれております。ね、お客さん扱いが良いち言われるわけなんです。
 よいそりゃなるほど駆け引きが強いかもしれん。根が商売人ですから本当に。けれどもそれはです、どこまでも信者というか、皆さんがおかげを頂くための駆け引きでしょうが。ですから、はーなるほどというて、はーやっぱりあちらの信心な間違いがなかったじゃろう。あぁいうおかげを受けなさったと言うて下さる方もあってよいけれども、ありゃふがよかつがの、といわれるような人達がまだ沢山あって良いということ。
 ね、その人達に、ならこれでもか、これでもかというて、顔を立てて下さる、顔を洗うて下さる、分からせて下さろうとするから、その働きがあるからこそ、まだ限りなく合楽が大きくなられるということがいえるでしょうが。
 ね、そこでどうでもお互いですね、いわゆる平生心に気を付けなければなりません。何でもない時の心。こういう状態の時に、何かがあったらどうだろうかと何時も思うて見なかにゃいけません。
 自分が心がいらいらいとる、なんかしらんけれどももやもやする、こういう時に何かあったら、自分がチンちいやカンちゅうごたる風になってしまうだろう。カーとなってしまうだろう。どうぞ私の心の中に今、平生心がございませんから、どうぞ和賀心にならせて下さい。平生心にならせて下さいという願いを持たなければならん。
 まぁその平生心のところにどのようなことが起って来ても、どのような例えばその問題と対決していかなければならないような事があっても、どっこいとそれを受けさせてもらう元気な心。それをより明るく受けられる心。それをよりにこやかに接していけれる心というものがです、求められ、又それを願わせて頂かなければならないということになるでしょう。
 そういう風に皆さん思われた事があるでしょう。あー今のような、こんなような心の時に何かがあったら、大変だと。はよこの心を平生心にしとかなきゃいけん、平生心にしとかなきゃいけん。と御神前に座って御祈念でもなさったことがあるでしょうか。それでもいけんなら、お取り次ぎを頂いて、どうにも私の心の中が汚れております。心の中が黒うございます。
 ね、今ここで何かがもし、生活の現場においてです、特別の事が起ってきたらです、それを受ける自信がない。そういう時には、しっかり神様にお願いをさせてもろうて、平生心を保たせてもらう、和賀心を頂かせてもらうことにつとめておかなきゃ、そこを好い加減にしながら前の方へ進みよると、ろくな事なかです。
 人に怪我をさせる。人の心を傷付ける。ね、それは結局どういうことになるかというとです、神が顔を洗うてやるというようなおかげになってこないのです。ね、いわゆるおかげの破綻です。そこからおかげが破れてくる。
 教祖様が手元のところをとか、ね、生活の現場においてね、それぞれのことを実意丁寧に行うていけよといわれるということはです、そのことを実意丁寧にしていくということだけではなくてです、そこから起きて来る様々な問題をです、いわゆるそこを自然の対決においてです、それを受けこなしていけれる。それを有り難く受けていけれるということがです、私は、それぞれの生活の現場においての信心をいわれるのはそれだと。
 そこのところの、例えばそこに立ってです、そういう生活の現場において起きて来たその瞬間です。私の心の中に、これをよりにこやかに受けさせてもらわなければ、より明るく受けさせてもらわなければと言えれる準備が心の中に出来ておらんと、ね、より暗くなり、よりにこやかでなくなってくるわけなんです。
 ね、それ聞いたばっかりでくーとせんならん。それ見たばっかりで、ね、心が暗くなってしまわなければならない。にこやかどころじゃない。例えば顔にはです、そげなことのっちいうて、例えばいうようなことであっても、その心の底にはにこやかなものがなからなきゃいけん。ははー、これでまた神様がおかげ下さろうとしておるなとこう分からにゃいかん。
 ね、何故かというとですね、私共の生活の現場に様々なその問題が、その実意丁寧にこう、例えばやってるでしょう。ね、お炊事ならお炊事場を、お炊事場で一生懸命女の方達が、そのそのことに取り組んでおるでしょう。商売をする人がお客さんと一生懸命相対しておるでしょ。職人さんが一生懸命自分の仕事に、忠実に打ち込んでるでしょう。
 そういう時にです、ね、どういうことが起きてきてもです、ね、それこそ神の、「世の人があれこれと神のことを口端にかけるようなこと。いわゆる神様の悪口をいうような、または信心をさせて頂いておる私共の事を、ね、腹の立つようなことを言われるような場合であってもです、それはね、神のひれいじゃと分からにゃいかんのです。
 ね、それは神様がね、おかげを下さろうとする、いよいよ勢いが出てきておる証拠なんだから、本当は有り難く受けなければおられんでしょうが。私共はそれを何時も思う。
 またこういう、ちょっと本当に合楽は、色んな問題を沢山持っておるけれどです、ね、その問題に火が点いたようにそれが、その爆発的に起きてくる問題があるわけですね、今度の「八坂?」先生の、ここに見えられた事の問題でもそうである。
 はー、もう合楽は商売人ばっかりじゃけん、駆け引きばっかり強うしてからと、例えばいうなら、神の顔にあれこれとくちはにかけておるわけですけれども、それは神のひれいと信じておる、分かっておるから、いや又これでおかげが受けられるなぁ、ということになるでしょうが。
 ね、それはね、どういうわけにこういう問題が起きて来るかと。いうような事柄をですね、ただどうこうじゃない、もう神のひれいなんだと信じなきゃ出来ません。神のひれいだと。
 信心させて頂いておかげを頂きたいという願いを切に持っておればおるほどにです、神様はそういうおかげを現せて下さるために、神のひれいがもうびりびりしておるから、次々と問題が起きてくるのである。
 ね、おかげが何時も動いておる。何時も神様の働きが生き生きとその、その子にあっておるからなんだという思い込みを一ついよいよ強うさせてもらうとです、そのことが、有り難く受けさせて頂けるのです。
 ね、いわゆるその成り行きそのものを、大事にしていくことが出来るのです。どういうそれが激しいことであっても、どっこいとそれを受けて立てれる心がそかからおきてくるのです。
 そういう生き方の中にですね、神が顔を洗うてやると仰るようなおかげになってくる。しかもそれは限りなく、このことで私が例を持って申しましたようにね。はー合楽はおかげを受けなさったという風に見て下さる方もあるが、ありゃふがよかったいという風に見ておる人もある。
 だからそういう人達には、これでもか、これでもかというて、まだその神のひれいをみせて下さるのですから、まだ限りなくおかげが受けられることが分かるのです。
 どうでも私はここの96節の、今日私が申しますようなところをですね、皆さんが分かられたらですね、もう本当に有り難い事だと思うんですよ。その事柄をですよ、より明るく受けられる、よりにこやかに受けられるというものですから、ね、何故むかなければならんかて、神様のひれいなんだからそれが。神のひれいじゃからとこう仰る。ね、神様が、そりゃ困ったことじゃなという風に仰っておらんでしょうが。そのこととても神のひれいじゃと仰っておられる。
 あかづら弁慶になって言い分けすることも何もいらんでしょうが。神のひれいじゃから。ね、人の口に後は立てられん。先を知ってはおらんぞとこう仰せられるけれども、私共が日々の体験からです、先は知ってはおる。そりゃどういう風になるかは分からんけれどもです、おかげになる事だけは分かっておるでしょうが。合楽の人達は。
 それはどのように難儀な事であってもです、その難儀が大きければ大きいほどです、それを有り難く受けていきゃ、よりおかげになる事だけは分かっておるでしょうが。先が分かってる。だからそれを合掌しても受けられる、よりにこやかに、より明るくも受けられるわけなのですよね。
 96節は今日はそのような風に頂きましたですね。今日そんな風に頂きまし、今日のような風に頂いたことは初めてでしたね。96節ね、「世の人があれこれと神のことを口端にかけるのも、神のひれいじゃ。人の口には戸が閉てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかるようなことを言うても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる」と仰います。どうぞ。

梶原 佳行